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主宰者雑感
1998年前半


6月6日(アップロードは6月28日)

団藤重光 著『死刑廃止論』

1974年から1983年まで最高裁判所判事を務めた、 団藤重光氏の著書である「死刑廃止論」(団藤重光『死刑廃止論』有斐閣、第4版、1995) 昨年夏から読んでみたいと思っていましたが、先日ようやく読むことができました。
僕自身、当然死刑こそが残虐な刑罰の典型というつもりでこの本を読んでいたので、 団藤先生の主張には異論はありません。

さて、「死刑廃止論」は有名な本ですので、インターネット上でも少なからず取り上げられていると思い、 ロボット型検索エンジン「Goo」で“死刑廃止論”“団藤重光”というキーワードで検索してみました。
その結果、98年6月5日現在で31件ヒットしました。
そのうち18件は「http://www.ethics.bun.kyoto-u.ac.jp/~kodama/」ではじまるURLでしたので、 よほど熱心な方だと思い(当初は「廃止論者」と期待して)早速訪問しました。(ヒット1件目のURL・・・下位ページ)

このページは京都大学の院生(修士)児玉 聡氏のページで、 そのうち死刑についての主張は、下位ページ 「応用倫理学風研究(ここをクリックすると新しいウィンドウが開きます。まず、開いてください。) の下層に書かれています。

訪問してみると確かに熱心なページではあるのですが、 このページの主宰者は「反・死刑廃止論者」でした。
死刑廃止論者が主張している、また、反論(再反論)してくるであろう事項を検討し、 論理で反論できないところはやむを得ず廃止論者の主張を認めながらも、 結果的に「死刑を廃止する決定的な根拠はない」として「反・死刑廃止」の結論を導く試みが行われています。

このページをご覧になって、みなさん様々な感想をお持ちになったことだと思います。

さて、僕のコメント(私見)を少し書いておきます。
まず、死刑の存廃にかかわる問題については、 ヒューマニズムの問題に尽きると思います。

ヒューマニズムとは、人それぞれ考え方が違うかもしれませんが、 犯罪に関して言えばまさに「人を憎んで罪を憎まず」の精神ではないかと思います。
その根本には「非暴力」の原則があると思います。

しかし、児玉氏は

「団藤氏は至るところで『ヒューマニスティックな』、 『ヒューマニズム』、『人道的』という言葉を用いられる。 しかしわたしはこの言葉とこの言葉を安易に用いる人を軽蔑し憎まざるを得ないのである。」

「曖昧な概念であり、 どのような立場にでも使えるテロリスト用語なのである」

として、「ヒューマニズム」の精神を批判しています。
この他にも、この方のさまざまな「失言」がありますが、 これらの中から、一つ引用します。
「〜憎むべきは「人権」という概念か。人権憎んで団藤憎まず。 」
生きる次元が違うといえばそれまでなのでしょうが、 「このような、ぱさぱさに乾いたこころの状態の人を友人としては持ちたくない」 というのが僕の正直な気持ちです。 (こう言ってしまうとなんにもならないんですが...)
先ほどの「死刑を廃止する決定的な根拠はない」という部分でも、 この方の人間性が見えてきます。
団藤氏のいう「私は、かりそめにも無実の者の処刑(誤判の可能性)という人道上絶対に許すことの出来ないような大きな不正義の犠牲において、 刑事政策【佐藤注・犯罪予防論と応報論・・・刑事政策が予防論と応報論を支持する学問ではないし、 そもそも、予防効果は疑わしいと思う。また、応報論は21世紀的ではないような気がする。】を優先させることは、とうてい認めるわけには行きません。 それでもなおかつ刑事政策を優先させるべきだという議論をする人がもしいるならば、 私はその人の人間としてのセンスを疑わざるを得ないのであります。」(団藤重光『死刑廃止論』有斐閣(1995)T−1「死刑と刑事政策」) ということばに該当するするのではないかと思います。

おそらく、この児玉氏は人生二十数年間、ひたすら「人生の表街道」をまっしぐらに突き進んできた、 いわゆる「優等生」や「いい子ちゃん」だったものだと思います。
いわゆる「優等生」や「いい子ちゃん」は、 己がたまたまつつがなく今までの人生を生きてこれただけ、 また、たまたま、時の教育制度とマッチしていただけだということには思いがよらず、 失敗したり、遠回りをした者のことを「努力不足」だというように、 本人の責任とする傾向があるように思います。(本人の責任だと断言せざるを得ないケースもありますが...)
このように、人間の弱さや挫折などは(あまり)視野にないために、 堂々と「強者の論理」を主張されるのだと思います。 (挫折などを経験しても、自分がそれを乗り越えたということから、 他人を自分の経験した挫折のレベルでとらえ、 乗り越えられずヘンな方向に進んでしまった者を理解できない、ということもあるでしょう。)
この種の人間は「根拠」や「論理」「証明」「討論」といったものを最大の武器とするために、 ときに人間の「心情」や「心情の変化」「環境」「対話」 が忘れ去られてしまうのだと思います。(※1)

これらの人はおそらく被害者の遺族とその周辺の「心」の部分を特に重視している(応報観念?−「目には目を・・・」)と思われるので、 人間の「心情」というのは充分に考慮していると信じていることだと思います。 しかし、犯罪の根本を考えるとき、 結果だけで判断して厳罰化や死刑を主張しても、なんの解決にもなりません。
厳罰化や死刑存続を語る前に、 むしろ、犯罪者を生み出さざるを得ない(強者優位の)社会構造の変革こそ必要ではないでしょうか。 (※2)

たとえば、貧困の問題。生きるために何かを盗まなければならないような生活をしている人たちのこと(スラム街を想定)はどうしますか。 これも、「本人の責任」だけですか。 また、このように生きるためのぎりぎりの生活をしている親を見て育った子供たちはどうなりますか。 (文化伝播理論)
日本国内に限定してみても、エコノミックアニマル化した両親が共に遅くまで仕事に出て、 子供にはテレビゲームと簡易食品(レトルト・インスタント・コンビニ食・等)を与えて、 親としての「教育」はほとんどしない。(学校がやってくれるとでも思っているのか・・・そもそも教育の次元が違うと思う) むしろ、「お金を稼ぐこと」「自分の時間を捨てて働くこと」が「エライッ!」と思わせるような後ろ姿を見せている... (場合が多いように感じる)
そのような(やむを得ず)無(低)教育環境で育った人間に対して、 「○○歳だから、成人だから、それぐらい分かるはず」と言えますか。

たまたま、いわゆる「強者」の立場に立った者は、 自分の安泰している現状を否定せず、現状維持を基本として保守化し、 問題の根本は問題を抱える側にこそあるとすることで、 問題の本質を見ずに済み、余計なことを考えなくてもいいのです。 結局、思考が停止した状態なのです。
(思考や判断の停止については、大西赤人さんの判断停止の快感を参照してください。)

とは言うものの、どんな理由であれ犯罪を犯した者が無罪放免でいいとは考えません。
悪いことは悪かったと認識し、 反省させるための教育を強制的に受けさせる必要があると思います。(教育刑)
その教育機関が「刑務所」(現行制度上での呼称)である(であるべきだ)と思います。
「教育刑という考え方など生ぬるい」と主張する方が多いかもしれません。 確かに、恐ろしい犯行の模様だけを読んだり聞いたりすると、 僕でもやはり、感情的には穏やかではありません。(※3) しかしそれでも、犯罪者が悪かったと反省し改心すればそれでいいのではないでしょうか。
反省して改心し、清らかな心になっている人間を殺してそれがなんになりますか。

ただでさえ犯罪によって人間が殺されているのに、 たとえ犯罪者といえども人間をこれ以上人為的に殺す悲劇を繰り返す必要はないでしょう。
人間が殺される場面を想像してください。
想像できない場合は、NHKスペシャル「映像の世紀」(NHKソフトウェア)をご覧ください。 さまざまな殺害シーンが出てきます。 状況が、戦争や戦闘状態であるないにかかわらず、弱い立場の人間が強い立場の人間によって殺される瞬間を焼き付けてください。
さて、現行制度において死刑に相当する犯罪者に対する代替制度について少しだけ触れます。

死刑に変わる制度として、注目したいのが中国の「死刑執行猶予」制度です。
これは、「死刑も刑罰の一種である以上、犯罪者の性格改善という目的の対象外におかれるべきではない。」 とした上で、 「死刑は淘汰刑だが、死刑の持つ一般予防目的を果たした以上、死刑囚を単純に処刑せずに、 特別の予防措置を講じて、社会復帰の途を開くのが刑罰の本質であり目的に合致する」(※4) と考えるものです。

この制度は、死刑廃止論者の「人道的見地」「誤判による挽回方法がない」という主張と、 死刑存置論者の「威嚇力がある」「国民感情」という主張のいずれをも考慮している点で、 少なくとも日本の現行制度よりはるかに意味のあるものです。(団藤氏は否定的だが・・・しかし藤本哲也氏(※5)は肯定的)

この他、欧米の「被害者・加害者和解プログラム」などの「刑事和解」モデル(※6)も見逃せません。 これらの「刑事和解」モデルは、「プログラムへの参加に同意した被害者および加害者が直接面談を行い、 被害事実と相互の感情が聴取され、被害者弁償の合意が形成される。 その際、訓練を受けた職員が第三者の立場で面談に参加し、当事者が和解に達するよう助言し、 和解策を模索する。」 というもの。
「刑事和解」モデルでは次のようなメリットがあります。 これと、賃金制を基本とした懲役刑などを併用するというのも代替制度として検討する価値があると思います。

現行制度を固守しなくても、より建設的な制度がある以上、 また、人の命を考える以上、 現行の死刑制度は大幅な見直しが必要だと思います。

※1

対話と討論
対話
・異なる立場による共同作業。共通点の探求が目的
・「仮説」を検証し、自分の立場を考察し直す
・常により良い解決策を模索する
・新しい考え方、過ち、変化に寛容
討論
・異なる立場による対決で勝つことが目的
・「仮説」を真実とみなし、相手の立場を批判する
・自分の意見を最善の解決策とし、他の意見を排除
・新しい考え方や過ちに非寛容
朝日新聞「対話と討論の違い」1998年5月26日より

※2 「問題が社会にあるのでは、とする考え方を経済学では『社会主義』という」などと片づけてしまう学者(経済学者)も残念ながら存在した。 (僕は経済学については何も知らないけど...今の段階で、一般的な経済学とはまさに「強者の論理」を追求する学問ではないかと思う。)

※3 シンジケート(反人権プレス)はあえて、人間の心情を逆なでするような表現を使って、 世論を形成しようとする。これらのシンジケートにおどらされてはいけない。

※4 藤本哲也『刑事政策概論』青林書院 1996年

※5 1997年の藤本哲也氏の中央大学での講義による

※6 平山幹子「わが国への「刑事和解」モデルの導入に向けて」1997
財団法人・日本刑事政策研究会主催の、 平成9年度「刑事政策に関する懸賞論文(題目:犯罪被害者に関する刑事政策はいかにあるべきか)」 優秀賞作品
藤本哲也『刑事政策概論』青林書院 1998年1月(全訂第2版)p.289
藤本哲也『刑事政策あ・ら・かると』法学書院 1995年(増補版)p.179
藤本哲也『諸外国の刑事政策』中央大学出版部 1996年 p.176

僕のへたな文章をお読みになるより、「死刑制度の廃止に向けて」や、 りんくっくから人権関係ページをご覧いただくことをおすすめします。
5月17日

カツオくんの声が変!

17日の「サザエさん」を見ていて不審に思ったことがあります。
カツオくんの声が違うのです。
ついに元の声の方が死んだのでしょうか。 「声の出演」では、「カツオ・・・富永み〜な」となっていました。
ところで、もうそろそろ「サザエさん」やめ時だと思いませんか。
リサイクル作が多いし、 声優さんもお年で、声が年寄り臭く聞こえるし、 また、何ていうんでしょうね・・・ちょっと古いんですよね。 「古き良き時代」を基本にした「〜はこうあるべきだ!」みたいなものが伝わってくるんです。
もっとも、この荒れつつある日本でこのようなポリシーのアニメがあるのも、 一方で、良いことと思いますが。。。(波平さんのような厳格な父親が少なすぎ!)

厳格ついでに・・・
最近、東海道線を使うようになったのですが、 固定式のクロスシートの古いタイプの電車(東海道線の色したやつ・・・緑にオレンジ)に乗ると、 毎日のように見かける気になる光景があるのです。
僕は混雑した電車が嫌いなので、できるだけ比較的空いている後ろの方の車両に乗ります。 東海道線ではいつも、11両目か12両目に乗ります。
普通電車で、特定区間を出て郊外へ向かって進む電車なので、後ろの方では全員が座れるほどです。 その中で、気になることというのが、向かい側の座席に土足のままで足を乗せている人が多くなっているということです。
人が少ないので、向かい側の座席に足を投げ出すのは結構なことですが、 靴を脱ぐというのは人間やっていく上での最低限のルールと思っているのですが、 いかがなものでしょうか。

どうも近頃、お金を払うということが、何をしても文句は言われない「特権」のように思われているように感じます。
ん!。でも、街でゴミを平気で捨てることはどうなんだろう...
これも、やつらに言わせれば「掃除する人の仕事をつくってやっている」となるのでしょうか...
いずれにしても、よろしくない傾向でしょう。

さてさて、では、これらの基本的教育は、いつ・どこで・誰がするのでしょうか。
これらは幼少の頃より家庭生活の中で両親が教えるべきことで、 決して学校で教えるべき次元の問題ではないと思います。 学校ですべき基本教育は親がやったものの上に成り立つもので、 たとえば、同和教育のような、「集団」が絡むものだと思います。
ところが、多くの家庭において「夫婦共働き」をしており、 子供が親と接する機会が少なくなっているように思います。 従って、本来親がすべき基本教育がおろそかになり、 しかも、「仕事だから」ということばを、自然と聞かされるであろう子供は、 「お金を稼ぐことが偉いこと」と思い、 さらに、受験産業によって偏差値至上観のようなものが植え付けられ、 「評価されないもの(お金にならないもの)=どうでもいい」「所詮人ごと(関係ない)」などという考えが働くのではないでしょうか。

さて、これらの性格の人間が多くなり、 また、これらの性格の人間が子供を持つようになってくると、 将来にわたって基本的教育を知らない人間が増えていかざるを得ないゆゆしき状態になるでしょう。 想像するだけでうんざりしませんか。

これを防ぐには、まず、親がいわゆる「マイホーム主義」になることと、 多くの時間を家族と過ごせる社会的制度の改革が必要でしょう。 具体的には労働時間の短縮や有給休暇の拡大とその未消化率を減らす政策の実行。
また、少子化傾向を逆に利用して、教員がありあまる(であろう)学校現場での基本的教育の補助の実施。 そのためには、少人数学級の実現が不可欠で、教員の数もそれなりに充実させる必要があるでしょう。
基本的(人間)教育ができていない国家ほど恐ろしいものはないのであって、 少子化傾向を逆手に取らないと、将来の日本は確実に衰退の一途をたどることになるでしょう。 (自国だけが衰退するのはまだしも、ふたたび他国に迷惑をかけることはあってはならない)

さて、少人数学級の実施をすると、当然、生徒と教師の距離が近くなります。
ここで問題となるのが、世代の違いに起因する価値観の違いによる生徒と教師間の「溝」です。
この「溝」は立場の違いから教師の努力によって埋めるしかないと思うのですが、 昨今の少子化の影響で教員の新規採用者数が激減しています。
頭数を合わせるには筋が通っているかのように見えますが、 教育の現場は機械的な工場じゃないのです。 年をとって保守的な教員ばかりとなり活気のなくなる教育現場では、充分な教育はできないと思います。
教員配置に世代の空白をつくらないためにも、 採用数は大幅に減らすべきではないと主張します。 むしろ、より充実した教育(少人数など)のために、増やしてもいいぐらいではないですか。 少子世代を支えるのは、いわゆる団塊の世代2世でもあるのですから、できないことはないでしょう。
「我々はみかんを作っているんじゃない!人間をつくっているんだ」(金八A・1980〜1981・小山内美江子)と、 親や教育者が自覚しないと、やばいよ...

おっ、「ついで」が長くなった...
さらについでだ。
本件思いつきで書いてしまったけど、 (ここに書かれているのはみんな思い付きだけど...) この件でご意見がございましたら、「落書き広場」にでも書いていってくださいな...
5月16日

Yahoo! 再登録・・・しかし...

また、Yahoo! に登録されています。
また、カテゴリーは申請と違いますが、2ヶ所に登録されているのでまぁいいでしょう。
4月23日

Yahoo! 登録削除・・・しかし...

紹介文が Yahoo! の視線で書かれることと、 紹介文の変更依頼を3回無視されたことから Yahoo! への登録をやめました。
具体的には「OEM 版 Windows 95 の修復セットアップ」(削除済みコーナー)を紹介文から外したかった(97年11月)のですが、 外してくれませんでした。 その後、このコーナーそのものをサーバーから削除したのですが、 Yahoo! は「OEM 版 Windows 95 からの純粋セットアップ」がこれに当たると思いこんで紹介文から外してくれませんでした。
始めのうちは変更依頼に記入漏れ等があったのかとも思っていましたが、 同時に変更申請していた「or」ドメインから「ne」ドメインへの変更依頼(2回目)したものだけは行われていたために、 紹介文の変更が Yahoo! 職員にとって面倒なのだと判断させていただきました。
その後、もう一度変更依頼しましたがやはり無視されました。
このような経緯から先日 Yahoo! から削除しました。

さて、ここで問題となるのが元々 Yahoo! から訪問された方が再度訪問したいときに Yahoo! では検索できないということです。 さらに、削除後新規訪問も含めたアクセス数が半減しています。
ここで改めて Yahoo! の使用頻度の高さと、Yahoo! への登録の必要性を再確認した次第です...
そこで、近々再度 Yahoo! に登録します。
僕個人としては、無効リンクは比較的少ないが Yahoo! というフィルターを通した紹介文をだす「監視付き登録型」検索エンジンよりも、 逆に、作者の意志とはほとんど無関係にひたすらアンカータグをたどってデータベースを作成している「ロボット系」のサーチエンジン(たとえば「Goo」など)の方が、 情報を受ける側にとってははるかにプラスになると思います。
(「自動処理登録型」有名検索エンジンの NTT Directory はどうかといいますと、 基本的にコンピュータが機械的に処理するためページの紹介文は、基本的にページ作成者が作成したものとなります。 規定以上の長文は編集されることもありますが基本的にページ作成者として異論はない程度です。 コンピュータが機械的に処理するために登録・変更の処理が速いというメリットもページ作成者側にはあります。)
ページ公開1年経過

「ぱらだいす」を始めて1年が経過しました。 コンピュータ関係ページとして偉そうなことを書いていますが、 僕自身パソコン歴2年未満の初心者です。 従って、用語の基本概念を間違って解釈したまま記述していたり、 プロから見ると実に腹立たしく歯がゆい記述があったりもするかもしれません。
誤情報などお気づきの点がございましたらどうぞお知らせください。
この間およそ1ヶ月更新停止

2月24日

電話試験システムの大幅変更
〜 総合試験と話し中調べのシステムがバージョンアップ 〜

総合試験「111番(旧番114)」と話し中調べ「114番(旧番113)」 および、「60番」の試験システムに大幅な変更が行われています。
まず、「114番」が、今まで自局外の調査の際は先方の局の60番へ公衆回線を使って転送して先方の試験機に調査させていたのですが、 これが、保守専用の高速ネットワークができたらしく全ての端末の調査が転送を意識せずに瞬時に行えるようになりました。 (受付システムが直接先方の交換機を調査するのか、 先方のシステムから調査結果だけを受け取ってアナウンスするのか、 試験システムが総括局レベル程度で統合されたため一括制御できるようになったのかは不明・・・現在調査中・・・おそらく、 結果信号だけのやりとりで受け付けシステムがアナウンスするのだと思う)
また、従来はフリーダイヤルは「フリーダイヤルサポートセンター」、ダイヤルQ2(正式には「だいやるきゅー」と発音)は「ダイヤルQ2サポートセンター」で、 手動で番号を検索して調査していたのですが、新システムでは自動調査となっています。
これらの点は評価できます。
しかし、同じ試験装置で行う総合試験「111番」は機能が低下しています。
まず、111番にアクセスした後、従来なら「試験パターン」(一部都市では不要)・「市内局番+加入番号」・「試験番号」の3項目を入力している間に、 試験機が逆探知をして発信番号を確認するのに対して、 新システムでは逆探知は行わずに入力する唯一の番号である電話番号(全桁)に無条件で呼び返して試験を続行するという方法を採っています。
従来の試験機は試験機にアクセスしている端末の電話番号が違っていたらエラーとなり何も起こらなかったのですが、 新システムでは、入力した番号に無条件で呼び返すので、故意に違った電話番号を入力することで、 「非常に悪質な」いたずら電話が成立します。
「非常に悪質な」と形容するのは、次のような理由があります。 まず、試験システムを通して相手の電話を呼ぶわけだから、 相手が出ても通話料金が発生しません。何度やってもやる側の損失はないぶん回数が増えます。
さらに、実際相手に電話をかける試験システムは、試験メニューを貫徹しようとします。
1回の操作で相手が受話器を置いても最低2回は呼び出して試験を貫徹しようとするので、 強い不快感を与える恐れがあります。
このように、想定外の使い方の余地が大きくあることから、 この試験システム変更は大きな危険性を持つ結果となっています。

さて、正当な使い方としての試験システムについてですが、 従来の「ガイダンス方式」ではなくなり、 「プルルルル」などの信号音のみでコマンドを入力しなくてはならなくなりました。
1980年後半の旧試験機並の操作性に逆行してしまった感じです。
また、今までの豊富な試験番号も廃止または番号変更されているので、 今のところ基本試験の方法しか判明していません。
試験結果も、「ガイダンス方式」ではなくなったため、 「良好」なのか「不良」なのか今のところ判別できていません。

まっ、判別できたら次回の「電話の本」のネタになっていいや...(^^;;

さてさて、このように旧試験機から新試験システムに移行しているので、 移行途上の地域のために残しているであろう「60番」(旧試験機の転送先)も存在理由がなくなりつつあります。
全国レベルで新試験システムへの移行が完了したら「60番」は戦前のように「係り」の者が直接出てくるようになるかもしれませんよ。

旧試験機の操作方法は「電話の本」を参照してください。
(電話ぱらだいす(試験運用)で最新版の試験機の操作方法を紹介しようとしてた矢先に新システムに変更されたので、 もうここでは旧試験機についての情報は載せません)
2月20日(13:00)

民主主義をもてあそぶシンジケートたち 〜 ペンの暴力団2 〜

20日付け毎日新聞朝刊29面「心想」(大阪13版)によると、 神戸の連続殺傷事件での審判の「検事調書」が不正に流出し、 「文芸春秋」3月号(文芸春秋社)に掲載された問題で、 「文芸春秋」3月号の発売中止を申し入れた神戸家裁に対して文芸春秋社が、 「当事者の申し立てもないのに裁判所が恣意的に出版物の事前差し止めをすることは、 言論・出版・表現の自由を制約し憲法に違反する疑いがある」 との公開質問状を神戸家裁所長と最高裁家庭局長あてに送付した。

「法的根拠」がどうなのかは法学徒であるにもかかわらず分からないが、 少年法の精神から少年の将来のために断腸の思いで、 その「根拠のない」とされる神戸家裁の申し入れが行われたと思う。 当然、シンジケートらよりははるかに法律に明るい裁判所の職員がとった行動なので、 「法的根拠」がなかった と し て も それは充分承知の上だったと思う。
神戸家裁のその「根拠のない」とされる申し入れは、 近代民主国家としてはふさわしい行為ではなかったのだろうか。

週刊誌を通じて国民の意識を変化させようとするシンジケートは、 政治やお役所を批判するときは、「規則一点張り」とか「縦割り行政」だとかあらゆる手口で批判してくる。
確かにその通りかもしれない。大いに改めてもらいたいところだ。

今回の裁判所による「申し入れ」がもし「法的根拠」がないにしても、 人権を重視して臨機応変に「規則一点張り」から脱却したととるなら、 奴らシンジケートが今まで主張していたことが実現したわけだからむしろ評価してしかるべきではないのか・・・と思う。
また、調書は「検事調書」だけではない。一方的な報道だ。(こういうのが洗脳的戦略的報道だ)

要するに奴らシンジケートは国民をいたずらにあおり立て、 洗脳し、自ら民主主義を、言論の自由をいたずらにもてあそび、 注目を集めるだけの無意味な集団な訳だ。

しかし、奴らシンジケートが「言論の自由」を「無法地帯化の容認」と解釈している以上、 必ず自らその「言論の自由」を閉ざすことになる。
このように民主社会をもてあそぶシンジケートの存在はむしろ民主社会にとっては脅威になるのではないだろうか。
今のうち(言論が自由なうちに)に良識と人権感覚を持った他のマスメディアによって、 このようなシンジケートは暴論ではあるが、破壊しておいた方がいいとさえ感じる。
洗脳的戦略的情報を受ける可能性のある読者(あるいは視聴者)は、 このような洗脳的戦略的偏向報道をしてくるメディアを、 見切ってしまうことも必要かもしれない。
情報は単なるバイアスだけではなく戦略的要素が濃くなっているので簡単に真実を見極めるのはもはや困難なのかもしれない。

あまりの勝手な振る舞いにもし政府が言論に介入してくるのが当たり前になってきたらどうなるか。
確実に歴史は繰り返されることになるだろう...


参考資料・・・毎日新聞(1998年2月20日朝刊/大阪13版・29面)「心想」

2月18日

「新潮45」 〜 ペンの暴力団 〜

2月18日発売の「新潮45」(3月号=新潮社)に、先月の堺市での通り魔事件で家裁送致になった少年の本名と顔写真が掲載された。
「タブーを排し『事件』の深い取材と分析をすべきだ」
「まれにみる残虐非道な犯罪であることに加え、匿名化によって事件の本質が隠されてしまったことや、 少年法が著しく現実と乖離していることへの問題提起の意味もあって」(石井昂・編集長)(略記)
などを掲載の大義名分としているらしい。

新潮社と言えば、神戸の事件でも容疑少年に対して「リンチ」(私刑)をしたシンジケート(Syndicate)だ。(フォーカス事件)
主張せんとする内容はともかくとして、手段を選ばない主張方法はまさに「ペンの暴力」だと言える。

少年法については前回書いたので今回は書かない。
神戸関係の「ひとりごと」(前回)

今回は全マスメディアの姿勢についての雑感を書く。

すでに、18日付の毎日新聞23面「深層」(大阪13版)に神戸の事件での被害者となった山下彩花ちゃんの母親も語っているが、 本当に少年法が時代遅れだと主張し改善が必要だとするのなら、出版社は顔写真や実名を掲載するよりも、 少年法を見直す「キャンペーン」をやるべきだったと思う。 それが法治国家における筋というものではないか。
今回のように勝手な信念に基づいて勝手な大義名分で違法行為が許されるなら、 勝手な思いこみや信念で犯罪を犯す少年たちと同じ次元だと言わざるを得ない。 出版社を始めとしたマスコミなど(特に週刊誌)はむしろ、 普段から偉そうに我こそが社会常識の基準だと言わんばかりに他者の非を興味本位に取り上げている分、 悪質で卑怯だ。
少年法を批判している輩(記者)は、どの程度少年法について調べたのか。
犯罪白書もまともには読んでいないのではないだろうか。
おそらく己に都合のいいように発言する、 いわゆる「有識者」の発言を盾に売り上げと注目を集めることを第一にやっているのではないだろうか。 それとも何らかの政治的意図があるのか...
いずれも非常に狭い視野での見方を載せているように見受けられる。

世の中にあふれる情報は必ず情報の発信者にとって都合のいいように「バイアス」(bias)がかけられている。
僕は、とある本の原稿を何年か書いてきたが、ほとんどの場合編集部がおもしろおかしく手を加える。
たとえば、「公衆電話の電話番号解読」に関する原稿では、 僕が実際には奈良県の全ての電話帳を集めただけだったにもかかわらず、 全国の電話帳全てを集めて部屋が電話帳で埋まったことにされた。
社会的にある程度の評価を持っているとされる新聞社も例外ではない。
某地方自治体が催した「平和展」の取材に際して、 入場者がなかったにもかかわらず、 近くを歩いていた若者を集めて会場に入れ写真を撮り、 翌日の紙面では「〜若者らが熱心に見入っていた〜」(略記)と報じた。
報じていることは正しいとしてもその取材の視点が偏っているものは非常に多い。

マスメディアは常にバイアスのかかった報道をしてくるものだとして、 そのバイアスを見抜くことが情報を受けるものにっとって欠かせないのではないだろうか。
まさに、「金八流」に言えば「物事を静止した状態でとらえてはならない」(1979年金八@)と言うのにふさわしい状態だ。
そしてそのバイアスを見抜く確かな目を持つことが洗脳的戦略的情報を受ける側にっとっての唯一の防衛手段ではないだろうか。
強いバイアスのかかった報道として世間を騒がせた記憶に新しいものとして、 読売グループの「憲法改正試案」が思い出される。
まさに、新聞社の仮面をかぶった圧力団体「読売」が本性を出してしまった出来事だったととらえている。
政党新聞もまたものすごいバイアスがかかかっている。
僕のこの文章も少なからずバイアスをかけているつもりだ...
最後に、
我こそが常識の基準だとするシンジケートやいわゆる「有識者」は、 しきりに「殺された側」の感情を前面に押し出してくるが、 その「殺された側」の親族の、事件から時間が経過した現在の心境は、 「〜当時は世間に知らしめ社会的な制裁を受けてもいいと思ったが、日が経つにつれ少年の将来を思い、『法は法として守るべきだ』と思うようになった〜」(略記) というものになっている。
これこそが、人間の本質ではないだろうか。
時代遅れだとされている少年法の精神は実は世界でもまれなほど先進的なものなのだ...


参考資料・・・毎日新聞(1998年2月18日朝刊/大阪13版・23面)「深層」



破産

確定申告に行ったついでに、年金課へ寄って国民年金(1号)の申請免除の手続きをしようとしたのですが、 同居している父親の所得が基準を越えていたために難色を示されました。
学籍が東京なのを利用して裏技(籍は奈良に置いたまま東京に住んでいることにする) を使えば認められるかもしれないと言われましたが、嘘つくことはないと思ってやめました。
免除申請のついでに、年金手帳が手元に二つあるのがなぜかを伺ったところ、 郵便局で加入していた3号とそれ以前の1号の番号があるためだと分かりました。
結局、申請免除に行ったつもりなのに、 未払いだった昨年1月から今月までの「納付通知書」をいただきました。
この払い込みが今月末までで、これを無視すると不利になるそうです。
「大至急払ってね」って言われました。
1万程度なら貯金をマイナスにしたら払えるけど、今回は128000円(大至急)プラス、 2月26日までに支払うべき過年度分36900円の合計164900円。
どうがんばっても払えないね。
いっそ生涯、年金を無視しようかとも思いますが、最近どうも考え方が「守り」の姿勢になって・・・。 昔みたいに反発する気になれなくて...。
払ってもたぶん40年も先には支給開始年齢が80歳とかになったりするか、 支給額が大幅に引き下げられるか、間接税額(消費税など)が大幅に上がっていて年金も「焼け石に水」みたいなものになってるでしょう。
なんかお金を捨てるみたい...。
国家が存在しているかどうかもねぇ〜。歴史は確実に繰り返される方向で進んでいるし...
しかし、親は関係ないと思いません?
2月12日

「電話の本98」出てる?

今日、「電話の本98」の原稿料が届きました。
そこで初めて「電話の本98」が出ていることを知りました。
いつもなら、年末に「見本誌」が届くのですが今年は何も届きませんでした。
本屋でも「電話の本98」を見ていないし、 出版社の方も原稿を依頼してくるときに「ネタがなくて大変・・・」などといっていたので、 今年はついに出なかったのかなぁと思っていました。
いずれにしても臨時収入。有効に使いたいものです...
2月6日

路側帯を走るのは関西人!!!

先日、スノーボードをやりに岐阜まで行ってきました。
前後の大雪のため、岐阜県内の高速道路はチェーン規制をしていました。
このため、大渋滞となりました。
あまりにも流れが悪いので、路側帯を走行する車が続出。
ある時気づいたのですが、路側帯を走る車のほとんど全てが、 「なにわ」「大阪」「和泉」「神戸」「奈良」「京都」などの関西系なのです。
高速道路を走行していた車両の多くは関西方面からのスキー・スノーボード客だったため、 特に目立ったのかもしれません。

しかし、朝のラッシュ時の西名阪(僕はここぐらいしかラッシュ時に乗った高速道路はない)では路側帯も車道の一部のようなので、 これは「文化」かも ...(^^;
1月9日(23:45)

日本で初めての総合電話事業体とは

1997年10月に、0088−日本テレコムと0041−日本国際通信が合併して、 国内・国際一体となった通信会社が誕生しました。(新生・日本テレコム)
そのとき、マスメディアは「初の国内・国際電話会社」と称していましたが、 電話の歴史をひもとくとすでにそのような組織は日本で存在していました。
ご存じ、日本電信電話公社(電電公社)です。
電電公社は1949年(昭和24年)に、逓信省が郵政省と電気通信省に分割され、 さらに電気通信省が日本電信電話公社へ移行(1952年8月・・・昭和27年)して誕生したもの。
この当時の電電公社が、国内・国際を総合した通信企業体として存在したという歴史があります。
電電公社の国際部門が国際電信電話株式会社(KDD)として民営化(特殊法人格)されたのが翌年(1953年4月・・・昭和28年)だから、 およそ8ヶ月とはいえ国内・国際の通信企業体が存在していたことになります。
ですから、新生・日本テレコムが日本初の国内・国際を扱う企業体ではないということです。

細かすぎます ?
でもね、マニアってこういうもんなんですよ...

参考資料=「最新 電話の歴史」1992年/佐藤広隆・編
© 1988-1998 Sato Hirotaka ALL RIGHTS RESERVED.

1月9日(1:15)

でんわぱらだいす試験運用

「ひとりごと」の最終回で「電話」関係ページは完全に独立させた別ページで運用すると書きました。 しかし、完全に独立させたページを複数持つということは負担が大きくなりすぎます。
すでに複数の完全に独立したページを持っているにもかかわらず、 さらに独立させたページを持つなどできません。
そこで、「電話」関係ページはとりあえず「ぱらだいす」の下位ページとして試験的に運用してみることにします。
12月29日

久々の郵便ネタ

腑に落ちないことや「これはいかんやろ」と思うようなことも多々ありますが、 今回はちょっとした情報を・・・。

1998年の郵便番号7桁化に絡んで、これまでに発売されたの5桁の「通常はがき」「年賀はがき」「かもめーる」「エコーはがき」などの官製はがきが、 1998年1月5日(月)〜3月31日の間に、7桁のはがきに交換できます。
通常は、はがきの交換には5円の交換手数料がかかりますが1998年1月5日(月)〜3月31日の間の交換は無料です。
なお、書き損じによる交換も1998年1月5日(月)〜3月31日の間は無料でできるようです。
また、料額印面50円の「往復はがき」や料額印面60円の「書簡」も同様の取り扱いです。

書き損じのはがきや、大量に買いだめているエコーはがきを交換するチャンスかと思います...

また、5桁の郵便番号枠の上から貼り付ける7桁の郵便番号シールも1998年1月5日から配布されるそうです。

それではみなさんよいお年を...
12月18日

結局名前を変えて復活 (^^;

「日記」「ひとりごと」に変わってまた同じような内容のページを設けました。

文字通り「雑感」を書く予定です。

郵便局

7月23日以来離職していた郵便局に19日から戻ります。
今回は年末年始だけの「短期」ですので勤務時間も短い予定です。 ここで困るのが「短期」バイトくんたちは基本的に「リース車」に乗るということです。 「リース車」には普通の赤い「郵便車」と違って「ハンドグリップヒーター」(ハンドルにヒーターがついているのであたたかい)や「ブレーキロック」(急な下り坂でもバイクを静止できる)がないのです。
いままで年末に担当していた地域は恐ろしいほどの(大げさ)急坂が多いので、「ブレーキロック」があるのとないのとでは作業効率が大きく変わってきます。
まっ、「短期」くんということで、気楽にゆっくりとやっていきましょうか...

後記

ホント、過去のページと同じだな.


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